デボーションガイド【マナメール】はこちらに引越しをしました。

2011年03月13日

アリマテアのヨセフ

マタイの福音書27章(使徒の働き15章、エレミヤ書15章)

■S:マタイの福音書27章58節
この人(アリマテアのヨセフ)はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。


■O:アリマテヤのヨセフはこの1つの場面、つまりイエスの死後の場面以外に聖書に出てきません。ですから、12人の弟子達と違って、イエスの数々の御業の現場には、全然姿を現しません。実は、神はキリストの埋葬に墓を備えるというこの1つの重要な役割だけのために、ヨセフを整えておかれたと信じます。そうです。そしてヨセフが勇気を出してピラトのところに行き、墓地を提供したために、イエスに、また全世界の人々に大きな祝福をもたらすことができました。もしそのことをしなかったなら、主の死体はイスカリオトのユダのように(使徒1:18-19)、犯罪人と一緒に空き地に投げ捨てられてしまったかもしれません。
 このように、神はすべての人を何らかの方法で人に祝福をもたらすために用いることができるのです。私達は自分が大きな、目立つような奉仕をしていると思わないかもしれませんが、もし神に仕え、人を祝福したいと願うなら、神は必ずそれを実践する機会を供えてくださいます。

■A:私は神に仕えたい、また人を祝福したいという心を整えたいです。また、神が私を用いたいと願われる目的を果たせるよう、いつでも、人に仕え、祝福をもたらすことができるように、準備をしておきたいです。

■P:主が祝福をもたらすために全ての人を用いたいと願っておられることを感謝します。主に仕え、いつでも、どこででも、人々を祝福する準備ができるように助けてください。

【稲福エルマ】
posted by shalom at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | マタイの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月12日

親切を実行する

エレミヤ書9章(エレミヤ書14章、使徒の働き14章)

エレミヤ書9章24節
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。・・主の御告げ。・・


 教会員のこれから3週間のテーマは「祈り、笑顔、挨拶、受け入れる」です。

 神は親切、公正、正義を行われるのをご存知でしたか。主はこれらのことを行うことを喜ばれます。主はそうするのが好きだからです。それで私達にも真似てほしいと願っています。私達は主の御こころの一部を担って行うときに祝福されます。一人のために、親切、愛、公平、義を示して、日々彼らのために祈り、その人に笑顔で挨拶し、あるがままの彼らを受け入れます。その後は、主に任せましょう。私達が私達のやるべきことを主に果たすなら、主もご自身のなすべきことを行うことができます。
 聖書は言っています。人は友が欲しければ自分がまず、友好的にならなければいけないと。本当に人々に親切になるべきです。それはどうじに彼らを愛することです。実行するとは働きかけて、やりたくないと感じるときにさえも意志を働かせて行うことを意味します。きょう、主があなたのところに送って来られるその人に親切を行いましょう。

【ウェイン・ヤマモト】
posted by shalom at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | エレミヤ書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月11日

いつも満たされて

使徒の働き13章(エレミヤ書13章)

■S:使徒の働き13章52節
弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。


■O:以前、私は人の必要に応え、多くの時間とエネルギーを費やして問題解決に取組んだにもかかわらず、問題はより深刻になり、ひどく失望した経験があります。その時、もう立ち上がりたくない程に心は疲れきってしまいました。しかし、賛美をする中で神様は私の内に触れて下さり、否定的な状況の中にあっても、聖霊様によって喜びと、また立ち上がる力が与えられる事を経験しました。
 私達が人を祝福したり、人の為に何かを提供する時、良い反応ばかりが返って来るわけではありません。人を祝福した結果、良い変化や反応が起こるなら、私達はやったかいがあると思えるものですが、逆に反発を受けたり、状況が悪化するなら、いったい何の為にやったんだ?と失望の思いがやってくるものです。
 今日の箇所で、パウロとバルナバはアンテオケという場所で旧約聖書の言葉を引用して、イエス・キリストの福音の真理を大胆に語りました。その結果、多くの人々がこの教えに興味を持ち、救われる人々が次々と起こされ、主の御言葉がこの地方全体に広まる程になりました。彼らの宣教活動は実を結び、前進していましたが、しかし、良い結果ばかりではなく同時に、迫害も起こりました。ユダヤ人達は、パウロ達の働きにねたみを抱き、この地方の有力者や力ある人々を巻き込んで、彼らを迫害し、ついにこの地方から追い出してしまいました。
 私達がそのような迫害や拒絶を受けるならどう思うでしょうか?「何で主の為に働いてこんな目にあわないといけないんだ。こんな思いするならもう二度と福音なんて伝えたくない。」という失望の思いを持つかもしれません。しかし、彼らがその地方から追い出された直後に書かれていることばが今日の御言葉です。
 そこには短く「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」と記されています。彼らは失望しても当然の状況の中で、なおも喜びと聖霊に満たされていました。私達の今置かれている状況はどうでしょうか?彼ら程ひどい迫害を受ける事は無いにしても、人間関係や働き、人生の中で失望してしまいそうになる逆境に遭う事があるものです。しかし、聖霊様は私達の人生の状況に関係なく、この世の何にも勝る平安と喜びをいつも私達に与えて下さいます。この方にあって私達は絶えず満たされた人生を生きる事が出来ます。今日も共に人生の何が満たされる事よりも、聖霊様によって満たされる事を私達の願いとし、それを求めましょう。

■A:今日、時間をとって聖霊様の満たしが自分を支配する事を願い求めましょう。

■P:

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【富田慎悟】
posted by shalom at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 使徒の働き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

教会は祈り続けていた

使徒の働き12章(エレミヤ書12章)

■S:使徒の働き12章5節
こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。


■O: 神の国の働きが進められていくとき、必ず敵からの反撃も起こります。へロデ王の命令で、ペテロは牢に捕えられ、16人の兵士によって監視され、救い出すことは不可能に思えました。教会ができることはただ一つ、全能の神に祈ることでした。神は天使を遣わし、超自然的な方法でペテロは解放されました。
それにしても引渡される前夜、鎖につながれたペテロは見つかりにわき腹をたたかれなければ起きないほどぐっすりと眠っていたとは驚きます。ちょうどイエス様が嵐の中、小舟の中で眠っておられたように、どのような時にも主に信頼して与えられる神の平安を味わっていたのでしょうか。
 本当に信仰があったのは、ロダという女中だけでした。彼女は声を聞いただけで、ペテロの解放を喜びました。一生懸命祈っていたほかの人たちは、神が自分たちの祈りに答えられたことを信じなかったのです。神の敵へロデ王は神に栄光を帰さなかったので裁かれ、小さな虫にかまれて死んでしまいます。神のことばはますます広まって行きました。

■A:主は必要なときには御使いを遣わして、危険からも救い出してくださる方であることを感謝します。どうすることもできない無力さを感じるときこそ、神の栄光を求め、神に熱心に祈り、結果を信じて感謝することをいつも実践したいです。

■P: 信じて祈り続けるものとさせてください。

【松村純一】
posted by shalom at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 使徒の働き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月09日

サウロを捜しに

使徒の働き11章(エレミヤ書11章)

■S:使徒の働き11章25〜26節
バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。


■O: 今日の箇所の前、サウロはエルサレムで迫害に合い、タルソに逃げていました。タルソはもともとサウロの出身地で、今のトルコにあります。そこで彼の存在は忘れられるかと思いきや、サウロに秘められた大きな可能性に気づいていたバルナバは、タルソまで出かけて行って、サウロを捜し出しました。アンテオケからタルソまでの旅は、徒歩ではかなり日数がかかったと思いますし、船で行ったなら金額もかかったでしょうが、そのことについてはここでは触れていません。
 バルナバは、サウロを捜して見つけ出してくるんだ、と決意していました。アンテオケにいた新しい信者たち(彼らは異邦の神々から改心した外国人の信者でした) にとって、また彼らが集まっていたこの教会にとって、サウロはきっと祝福となり、大きな価値のある存在となる、とバルナバは信じていたのです。人々が神の国に入る前に、その人たちを追いかけなければいけないことがあります。祈りをもって、彼らとたびたび会うことによって、友達となり、経験をともにすることによって、彼らを「捜し求め」「追いかける」のです。
 ある人は、一人の人が主イエスを信じるようになるまでには、おそらく40人くらいの人が、この人に話しかけているはずだと言いました。最初にキリストのことを伝えた人は、自分は主のために何もできなかったと思うかもしれません。逆に最後に声をかけた人は、自分がこの人をキリストに導いた、と感じるかもしれません。両方とも間違っています。どちらも大切だからです。
 機会があるたびに、キリストを伝え続け、祝福を与え続けましょう。一人の人の救いに関わる40人の鎖の中の、あなたは最初の人かもしれないし、最後の人かもしれません。その40人のうちのどこにいたとしても、あなたは祝福となっているのです。

■A:まわりの人、知り合いや友達にとって、祝福となりたい。どこに行っても、主は私を用いてくださり、主の愛を証しさせてくださると信じる。一人の人がキリストに導かれるために用いられる40人の鎖の一つになりたい。

■P:主よ、今日だれかを祝福する機会を与えて下さい。その祝福を祈りと交わりによって、フォローアップすることができますように。主が彼らをありのままで愛していることを知らせることができますように。

【グレッグ・スミス】
posted by shalom at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 使徒の働き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月08日

かたよりみない神

使徒の働き10章(エレミヤ10章)

■S:使徒の働き10章42節
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。


■O:コルネリオは敬虔な、神を畏れる人で、いつも人々に施しをなし、神に祈りをしていた(使徒10:1−2)とあります。このローマ人のコルネリオはまだ個人的に神を知るところまでいっていませんでした。そこで神はこの人が神の国について知ることが出来るようにとペテロを遣わします。ペテロはコルネリオからことの次第を聞くにつれ、神は人をかたよりみない方であると悟ります。そうです。私達の神は私達の国籍や地位や学歴や経歴や出身などによってえこひいきすることはありません。ですから、人が神に受け入れられるように神の条件にあわせなくてはならないのです。それには二つのことが必要です。一つは神を畏れること、すなわち、罪を憎むことと、もう一つは義をおこなうこと、つまり、正しいことを行うことで、決してむずかしい条件ではありません。もしそうするなら、誰でも神に受け入れられます。この神のメッセージはイエス・キリストによって伝えられ、ユダヤ人たちには御言葉が送られていました(36節)。
 いまは、イエスを信じる全ての人によって、この知らせが伝えられています。ある人は一人の人に遣わされるかもしれません。またある人は家族かもしれません。聖霊が導かれたときに、従順に従って祝福をもたらす者となれるように祈りましょう。

■A:聖霊は完全に人をマッチさせることができる方です。使徒の働きにあるように聖霊に敏感になりたいです。

■P:天の父なる神よ。多くの人々がこのイエス・キリストのあかしを聞く事が出来るように私達を遣わしてください。イエスの御名によって。

【中村光子】
posted by shalom at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 使徒の働き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月07日

主とともに働く

使徒の働き9章:主とともに働く(エレミヤ書9章)

■S:使徒の働き9章17節
そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」


■O:主には何でもお出来になるのだから、アナニヤの手など借りなくても、事を成し遂げられます。しかし、主は私たちとともに働く歩みを望んでおられるのです。私たち人間と違って、疲れることもまどろむことも無い方ですから、めんどくさいから、私たちを用いるのではありません。私たちとともに働いて喜びを分かち合いたいと願っておられるのです。
 私はときどき、自分がわざわざ出かけていって、そこまで行って何かするということのは、めんどくさいし、意味があるのだろうか?主は、私の手など必要とはしないでもそんなことできるから、祈るだけで十分ではないのか?と考えてしまいます。しかし、この働きは、主がわたしたちとともに歩みたいという願いのあらわれであり、私たちの喜びともなる恵みなのです。
 旅行に行くにしても、遊びに行くにしても、大切なのは『何をするか』よりも『誰とするか』であったりするものです。何かの働きにみんな必ず召されているはずです。主は私たちに対して、その働きをあなたとしたい、と誘ってくださっているのです。

■A:自分と一緒に働くことを主が望んでおられるように、私も主と共に働くことを望みたい。


■P:

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【真島 誠】
posted by shalom at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 使徒の働き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。